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日本でも鹿鳴館時代にデビュタントがありました!

鹿鳴館は明治政府によって建てられた社交の場です。外国からの賓客・外交官をもてなすために作られました。ヨーロッパ文化を取り入れた象徴ともいえるでしょう。鹿鳴館時代は明治16年~20年を鹿鳴館時代といいます。
そんな鹿鳴館時代に、娘をデビュタントデビューさせることはありましたが当時の日本社会は「男女七歳にして席を同じとせず」という言葉がある通りの社会でした。そんな社会だった中に、男女が手を取り合って踊る社交ダンスなんてとんでもない!恥ずかしい!という状況でしたので、娘は踊らず、おばさんばかりダンスをするというデビュタントの本来の姿ではないありさまでした。そんな状況の絵が「江戸の舞踊会」というタイトルで、ピエール・ロティによって描かれています。
キリスト教社会は恋愛結婚の思想ですが、昔の日本は上流階級ほどお見合いでの結婚だったので、デビュタントは根付かなかったのかもしれません。実際に今の日本でも上流階級は見合いという形通りの形式はとらなくても紹介という形で上流階級の中で結婚しているのが少なくないと思えます。
やがて、鹿鳴館時代が終わり娘を夜会にデビューさせることもなくなっり、現在はコンパなどで結婚相手を探すので日本では根付かなかったのだと言われています。

ピエール・ロティって何者?!

「江戸の舞踏会」を描いたピエール・ロティは1885年と1900~1901年の二度に渡って来日しました。フランス出身で、海軍学校へ入りましたが海軍士官として世界各地を巡るうちに東洋がすっかり気に入り、東洋を題材にした小説・紀行文・ロママンティック小説を書き残しました。
「江戸の舞踏会」では、ダンスを踊る日本人を「個性的な発想がなく、自動的に踊るだけ」とか「しとやかに伏せたまつげの下で左右に動かしているスモモのように吊り上った眼をした、とても丸くて平べったい小さな顔」と表現しています。かなり失礼な言い方ですよね。
そんなロティに芥川龍之介はとても関心を持ち作品も作りました。芥川龍之介は「江戸の舞踏会」に題材を得た小説「舞踏会」を執筆しましたし、「ピエール・ロティの死」という文章も書きました。

鹿鳴館

鹿鳴館は1883年7月7日に完成され、1945年に閉館しました。所在地は、東京府麹町区山下町薩摩藩跡地です。収容人数は約2000人。1階には食堂・書籍室・談話室があり、2階には舞踊室がありました。
落成の祝宴は、明治16年(1883年)11月28日に、1200名を招待して行なわれました。鹿鳴館の名前の由来は、「鹿鳴」は詩経の『鹿鳴の詩』からとられています。来客をもてなすことを表す語で、中井櫻洲が名付けました。そして、祝宴当日は井上馨(当時の外務大臣)の誕生日でもありました
鹿鳴館では外国からの賓客接待だけに使われたのではなく、天長節(11月3日、明治天皇誕生日)の祝賀会行事をはじめとした国内行事の数々にも使われるようになりました。そして、これらの夜会、舞踏会、高官婦人による慈善事業などが世間の注目を集めることになりました。
その一方で、欧化政策を批判する国粋主義者は「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」として非難の声を挙げていました。明治時代は、日本の政府高官やその夫人といわれる日本の上流階級の大部分でも、西欧式舞踏会でのマナーやエチケットなどは当然ながら何も知らない状態だったので、舞踏会での食べ方、洋服の着方に舞踏の仕方などは、西欧人の目からみると、まったく様にならないものでしたが、本人たちは真剣勝負で挑戦していましたが、試してはみるものの失敗や勘違いぶりばかりがが目立っていたようです。そのようなことが書き残されていて、西欧諸国の外交官も表面上は連夜の舞踏会を楽しんでいながら、書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記して嘲笑していました。そして明治時代ですので当たり前ながら、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、ダンスの訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていたことがジョルジュ・ビゴーの風刺画に描かれいます。そして芸妓の他にも、高等女学校の生徒も動員されていたといわれています。
当時の外務大臣が行った井上の鹿鳴館外交への風当たりは、次第に厳しいものになっていき、さらには条約改正案(外国人判事の任用など)が世間に知られると、大反対が起こりました。面目を失した井上は明治20年 (1887) 9月に外務大臣を辞任しました。鹿鳴館時代はこうして外務大臣の井上とともにその短いが燦然とした歴史に一応の幕を下ろすことになりました。鹿鳴館ではその後、数年間にわたって天長節夜会が開催されていました。

鹿鳴館外交の中でも最も華麗な舞踏会のひとつとして知られているのは、明治20年(1887年)4月20日の仮装舞踏会「ファンシー・ボール」です。この華麗で有名な舞踏会ですが、鹿鳴館ではなく総理官邸で行われました。そのうえ外交とは直接関係のないも催しでもありました。
伊藤博文総理と梅子夫人の主催ということで開かれたこの舞踏会ですが、実際には時のイギリス公使夫妻が主催したもので、伊藤博文総理はあくまでも好意で官邸を会場に貸し出しただけです。たんに好意で貸し出しただけでしたが、当時の国粋主義者たちは、この催しを知ると「亡国の兆しだ!」と激しく罵りました。アメリカへの渡航歴あり、外務大丞をつとめたこともある勝海舟でさえも、この仮装舞踏会をきっかけに憂国の感を深め、これを21か条の時弊を挙げた建白書にしたためて政府に意見しました。
明治23年(1890年)に鹿鳴館は宮内省に払い下げらて、華族会館が一部を使用していました。明治2年(1894年)6月20日の明治東京地震で鹿鳴館も被災し、その後修復され、土地・建物が華族会館に払い下げられました。
旧鹿鳴館の建物は昭和2年(1927年)に日本徴兵保険会社(大和生命保険を経て2011年現在はプルデンシャル ジブラルタ ファイナンシャル生命保険)に売却されました。そして売却された後も保存されていましたが、昭和15年(1940年)に取り壊されました。取り外された階段と壁紙は、東京大学工学部建築学科に保存されています。また、その際に売却されたシャンデリアが江戸川区の灯明寺に残っています。鹿鳴館の正門として使用された旧薩摩藩装束屋敷跡の通称「黒門」は旧国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945年)に、空襲により焼失しました。

鹿鳴館時代(明治16年~明治に20年)に踊っていたのは何?

鹿鳴館時代では欧米にならって、上流階級の間で社交ダンスが外交政策上の必要性から導入されました。踊るスタイルはカドリーユ、ウィンナーワルツなどのウィーンの社交界スタイルで踊られていました。

カドリーユは、4組の男女のカップルが四角(スクエア型)になって踊る歴史的なダンスです。伝統的なスクエアダンスの先駆けがカドリーユです。
カドリーユの語源は、17世紀の軍事パレードを指す言葉でした。スペイン語のcuadrillo、ラテン語のquadratus(四角)が語源ではないか?と言われています。カドリーユ用語で例にとると、ダンスのフィガーだと「ジュテ(jeté)」、「クロスシャッセ(chassé-croisé)」、「プリエ(plié)」、「アラベスク(arabesque)」がありますが、そのほとんどがバレエ用語と同じです。

カドリーユの構成
次の5パートのフィガーから構成されています。
  • 1.Le Pantalon(パンタロン、つまりズボン) - 2/4拍子または6/8拍子。「ABACA」。
  • 2.L’été(夏) - 2/4拍子。「ABBA」。
  • 3.La Poule(雌鶏) - 6/8拍子。「ABACABA」。
  • 4.La Pastourelle(羊飼いの少女) - 2/4拍子。「ABCBA」。
  • 5.Finale(終わり) - 2/4拍子。「AABBAA」。

このうち「La Pastourelle」は「La Trénis」と変わることもありました。La Trénis - 2/4拍子。Trénitzというダンス・マスターが作ったフィガーです。
ウィーンのカドリーユでは、La Trénisの次にLa Pastourelleが来て合計6パートになっています。
フランス語圏の小アンティル諸島には、「Kwadril」として知られているだんすがあります。 ポルトガル語圏ではquadrilha(クヮドリーリャまたがクヮドリージャ)と呼ばれていて、今でもポルトガルやブラジルの「フェスタジュニーナ」祭りの際などに盛んに踊られています。

ウィンナーワルツ
13世紀頃から今日のチロル州とバイエルン州の農民が踊っていたヴェラー(Weller)というダンスから成立しました。西オーストリア・南ドイツ(ハプスブルク帝国)起源ですが、ウィンナーワルツという言葉はフランス起源という説もあります。
ヴェラーは、ゲルマン文化で初めて男性と女性が身体を接して共に回るダンスでしたが、ハプスブルク帝国時代に汚らわしいという理由で長年に渡って法律的に禁止されていました。禁止されていましたが、監視の目が届かないアルプスの渓谷の奥では、厳しい生活の中、ヴェラーを踊ることが農民の数少ない娯楽でした。16世紀に入って、ヴェラーがインスブルックなどの都市に住む住民にも伝わり、渓谷に住む農民だけではなく、各町村の住民も踊るようになっていきました。ヴェラーは農民が躍っていたような激しい動きでした。都市の市民は優雅さを好んだことから、ヴェラーを段々と上品化へされるようになり、ヴァラー、そしてワルツに発展していきました。あまりの人気のため、ハプスブルク帝国は法律の改正を余儀なくされて、改正当初はチロル州でのみ、最終的にはオーストリア、そしてハプスブルク帝国全体で解禁されました。そして、18世紀にはインスブルックやウィーンのホーフブルク王宮でも踊られるようにまでなり、正式にハプスブルク宮廷文化に取り入れられました。
「会議は踊る、されど進まず」で有名な「ウィーン会議」は1814年に行なわれましたが、その国際的な場に初めてワルツが登場したのをきっかけに、世界中にワルツが広まりました。

ベーシックステップ

  • ナチュラルターン
  • フォワード・チェンジ・ステップ
  • バックワード・チェンジ・ステップ
  • リバースターン
  • リバース・フレッカール
  • ナチュラル・フレッカール
  • コントラ・チェック・リンク

日本でも鹿鳴館時代の4年間は舞踊会が催されて、滑稽ながらもワルツやカドリーユを踊っていたというのは「欧米風ダンス」の習い事の始まりだったのかもしれないですね!

カドリーユはとても活発なダンスで、それぞれのカップルはスクエアの中心を向きます。ヘッドカップルと呼ばれるカップルが1組います。残りのカップルがサイドカップルと呼ばれます。
最初にヘッドカップルが踊り、それからサイドカップルが反復して踊ります。